大きな体でママチャリを運転して兵庫県立稲園高校にやってきたのは、同校出身でトロンボーン奏者の上山智正さん。ポーランドワルシャワ国立歌劇場の首席トロンボーン奏者として活躍する音楽家です。タイミング良く帰国されているとの情報を聞きつけ、母校でお話を伺いました。
偶然?運命?トロンボーンとの出会いは先生の一言だった
尼崎生まれの上山さんは、塚口小学校、塚口中学校、そして稲園高校出身という、まさに「あまっこ」。小学5年生の頃にはにすでに身長が170㎝ほどあったからか、友人たちの間ではリーダー的存在だったとか。当時は、田能のため池でザリガニを釣ったり、手打ち野球をしたりと、活発な子どもだったといいます。そんな上山さんが、音楽に、そしてトロンボーンにどのようにして出会ったのでしょうか。
「5年生の時に、小学校でブラスバンドクラブが結成されたんです。僕は憧れていたトランペットがやりたかったんですけど、顧問の先生が『君は背が高くて手が長いから、トロンボーンね』って。僕の人生が決まった一言ですね」と笑います。
トロンボーンと運命的な出会いを果たし、熱心にのめり込んでいった…かと思いきや、中学校でも吹奏楽部に入部したものの、本番前にちょっと練習に参加するぐらいの幽霊部員だったそう。でも、音楽との関わりは別の形であったといいます。
「中学1年生の時の担任の先生が音楽の先生で、教室にピアノがあったんですけど、当時流行していたドラマで流れた音楽を一小節だけ弾く、みたいなことが流行ったんです。自分も弾いてみたくなって、初めは独学でピアノを練習して、そのあと本格的にピアノ教室で習い始めました。それからずっと、ピアノが好きですね」
「運命の一言」はひとつじゃなかった
高校でも吹奏楽部に入部した上山さん。創立3期生ということもあり、部員はまだ少なかったそうですが、顧問の先生との出会いが、トロンボーンに真面目に向き合うきっかけになります。
「とても熱心で面白い先生でした。一緒にやっていくうちに、やっと真面目にやり出しましたね。僕らが3年生になる頃には部員も増えて、みんなで必死に練習して。楽しかったですね。朝6時から集まって練習していると、近所から『うるさい!』とクレームが来たこともありました(笑)。コンクールで高く評価されたわけではないけれど、みんなで一緒に頑張ったというのが、いい思い出ですね」
とは言え、高校3年生の春までは、普通の大学に進学することを考えていたといいます。音楽大学へ進学することになったのは、またしてもある出会いがきっかけでした。
「当時、プロのクラリネット奏者の方が指導に来てくれていたんです。ご自身はカナダの楽団に就職が決まっていたんですが、出発までの数カ月指導してくれました。最後、顧問の先生とその方が飲みに行かれて、『あのトロンボーンの子なんかは、音楽の道に進ませたらいいんじゃないか』と言ってくれたみたいで。それを顧問の先生から聞いて、急に音楽でやっていきたいと思って、音楽大学を目指したんです」
何かに導かれるように音楽の道を進むことを決めた上山さん。それまで専門的なレッスンは一切受けたことはありませんでしたが、顧問の先生に毎日指導してもらい、見事、音楽大学への入学を果たしたのでした。
尼崎からポーランド・ワルシャワへ
日本の狭い土地、特に建物ばかりの尼崎は窮屈だった、という上山さんは広い世界に憧れ、大学卒業後はポーランドのショパン音楽院(現・ショパン音楽大学)に留学。音楽にどっぷり向き合う日々を過ごします。
ポーランドを留学先に選んだ理由は、「大学にショパンを研究している先生がいて、研究室でよく話していたんです。そこで、『お前はポーランド行ってこいよ』って(笑)」。
音楽院を修了し、金管楽器が盛んなドイツやフランスで有名な先生を探そうとしていた時にちょうど、ポーランドワルシャワ国立歌劇場のトロンボーン奏者の空きが出て、採用されることに。それからずっと、歌劇場のオーケストラでトロンボーンを吹き続けています。
さらに2014年には、トロンボーン四重奏団『HIBIKI Trombones(響トロンボーンズ)』を結成。オーケストラではできない、自分が表現したいことを形にしたかったといいます。メンバーとともに、ポーランド各地で演奏会を開催。そして今後は、少しずつソロでも活動していきたいと考えているそうです。
自分の中に「確信」を持って突き進め
人生の様々なポイントで、先生の「運命の一言」に出会ってきた上山さん。例えば高校生の時、「音楽の道に進んでみれば」と言われて「自分にはできない」とは思わずに突き進めたのはなぜなのでしょうか。
「ひとつは、『とにかく音楽が好き、これで生きていきたい』という強い気持ちがあったから。今まで、トロンボーンをやめたいと思ったことは一度もありません。
ふたつめは、『自分の中に確信を持つ』。厚かましいんですけど、『プロになりたい』ではなく『絶対にプロになれる』と思っていました。
そして、『諦めずにひたすら続ける』。続けていれば、いつか転機がきます。僕自身、必要な時に必要なものをいただいてきたと思っていて、音楽の道で生きていきたいという気持ちを、それぞれのタイミングで先生たちが後押ししてくれた。とにかく音楽が好きで、続けてきたからこそだと思います」
「『音楽の道に進むなんて、人生を捨てるつもりか』なんて心配されたこともあります。家族も最初は躊躇していました。でも、父はそうではなかった。もともとクラシックが好きな人で、レコードを集めたりしていたので、僕がこの人生を選んだことを喜んでくれていた。家族の理解があったから、今があると思っています」
運命をたぐり寄せるのは、自分自身
何年も帰国しない時期もありましたが、ここ数年はわりと頻繁に帰ってきているそう。そんな時は「上山が帰ってきているらしいよ」と、Facebookでつながった友人が声をかけあってみんなで集まるなど、尼崎の友人の皆さんとの交流を深めています。高校の先輩から、稲園高校創立40周年式典の祝賀演奏の依頼があり、あましん・アルカイックホールで演奏したことも。「音楽が好きだ」というまっすぐな気持ちが、そんなつながりを自然と、上山さんのまわりに運んでくるように感じました。数々の「運命の一言」もきっと、自分を信じて努力し続ける上山さんだから「運命」になったのでしょう。
インタビュー後、校内を歩きながら「明るい雰囲気の学校になりましたね」と懐かしそうに話し、ママチャリで帰っていった上山さんなのでした。
響トロンボーンズ「A Song For Japan」
2011年の震災の後に書かれた曲。震災にあわれた人達への祈りが込められている。
(プロフィール)
うえやま・ともまさ 尼崎市出身。ポーランドワルシャワ国立歌劇場首席トロンボーン奏者。1983(昭和58)年、尼崎稲園高等学校卒。相愛大学音楽学部器楽科卒業後、ワルシャワ ショパン音楽院研究科へ留学。ポーランドワルシャワ国立歌劇場トロンボーン首席奏者のほか、トロンボーン四重奏団『HIBIKI Trombones(響トロンボーンズ)』としても精力的に活動中。ピアニストの妻の影響で、11歳になる息子さんもピアニストを目指しているとか。