グローバル×ローカルな活動を
阪神尼崎のシンボルとも言える、高さ17メートルの朱色の大鳥居。ここは「尼のえべっさん」の名で親しまれる『尼崎えびす神社』。尼崎の古名「琴の浦」発祥の地とされる由緒ある神社です。
「尼崎の人たちは参拝の仕方もユニーク。『そんなに鳴らさなくても大丈夫』とつっこみたいくらい鈴をガランガランと鳴らしたり、『えべっさーん』と大きな声でお参りしたりする方も。研修などでほかの神社にも行きますが、地域性があらわれます。ここにいると、飽きることがないですね」と、おおらかに笑いながら話すのは宮司の太田垣亘世さん。
年1回ニューヨークで七五三の祭儀を執り行うほか、「神道を知れば日本を理解できる」としてインバウンド向けに巫女体験を実施したり、エフエムあまがさきで在日外国人向けの英語放送を担当したりするなど、「The日本、The尼崎」な場所からグローバルでローカルな活動をされています。
はじまりは、太田垣さんが尼崎から世界へ飛び出したことからでした。
「かっこいい外国」暮らしを夢見て世界へ
「父が祖父の後を継ぐことになった小学6年生の時、尼崎に引っ越してきました。当時、世の中の風潮も受けて『外国はかっこいい』と思っていたので、『神社=和モノはダサい』と。小学校卒業時にはすでに客室乗務員を志し、外国で暮らすために外資系の航空会社に就職したんです」
いよいよ夢にまで見た海外生活…と思いきや、太田垣さんの根本を揺るがす出来事が起きたのです。
「入社時期が半月ほど遅れました。理由は、面接で『神道』について質問されたのですが、きちんと説明できなくて誤解を与えてしまったから。テロなどへの影響を考慮して、神道について調査されていたそうです。今まで国際人をめざして勉強してきたのに、国際交流ができていないことにショックを受けました」
世界に飛び出したからこそわかった「真の国際交流」
その後も、13カ国ほど国籍の違う人たちと一緒に働き、交流するなかで、英語をどんなに話せても、自国の文化を知らないためにコミュニケーションを深められないと痛感したと言います。
「生まれ育った日本や尼崎を理解することは自分自身を理解すること。同時に、こんな環境で育ったから、こんな価値観や行動になるのだと、相手に対する想像力の土台にもなります。そこがあって初めて、コミュニケーションを深められ、真の国際交流ができるのだと気づきました」
日本について知ろう。そう心に決めた太田垣さんは、シドニーオリンピック開催の2000年に、約6年間の客室乗務員生活にピリオドを打ち、神職の世界に飛び込みました。
多様な人々の心のよりどころとして
「仕事や趣味、好きなこと。一見、まったく関係なさそうなことも、クリップでぴっと留めて融合させれば、新しいものが生まれるんです」と太田垣さん。その通り、神職×国際交流×客室乗務員経験を活かして、尼崎を中心に、日本、そして世界でと幅広く活動しています。
現在は「マナーのまち・尼崎」を構想中。「旅行者など海外から多様な人たちが訪れています。行儀・作法など堅苦しいものではなく、多様な人たちと交流する上でコミュニケーションが深まるマナーを提案できればいいなあと考えています」
ミモザなど花々が咲き、勝ち馬さん、願掛けきつねさん、しあわせえびすさん、世にも不思議な月像石…バラエティ豊かな境内。そこに太田垣さんの想いが加わって、誰でも「ウエルカム!」な包容力で、多様な人たちが集い、交流が生まれる神社になっています。
「尼崎は中国や韓国など外国人も多く暮らしていて、『おねーちゃん!』と気軽に子育ての悩み相談に訪れる方も。お話を聞くのはもちろん、ここに来るだけで『運が上向く』と感じてもらうことも神職の使命だと思っています。多様な人々の心のよりどころとなる神社にしていきたいですね」
(プロフィール)
おおたがき・のぶよ 大学卒業後、オーストラリア航空で客室乗務員を勤め、香港で暮らす。退職後、神職の資格を取得。2007年に実家の「尼崎えびす神社」に奉職し、2009年までの2年間はニューヨークで赴任宮司を務めた。2012年に宮司に就任。加えて、2016年より「尼崎市国際交流協会」理事を務めるほか、全国各地でマナーや開運に関する講師業も行っている。
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