困難を「笑い」に変えて乗り越える、尼崎イズム

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写真、作家・落語作家の成海隼人さん
成海隼人さん(43)/作家・落語作家

写真、『尼崎ストロベリー』表紙
表紙は「尼崎の玄関口」とも言える、阪神尼崎駅北側の尼崎中央商店街入り口

 尼崎を舞台にした小説『尼崎ストロベリー』(幻冬舎)。

― 主人公は母親と2人で暮らす高校生。漫才番組を観て「ネタのどこが面白かった?」など議論することが至福の時間というお笑い好きの親子だった。ある時、母親に胃がんが発覚し、余命半年を宣告される。母親を救う方法を模索する中で、笑うことでがん細胞を攻撃する免疫細胞を活性化できると知り、親友とコンビを組んで漫才大会に挑む。 ―

 作者は尼崎市出身の作家・成海隼人さん。成海さん自身と母親をモデルとし、実体験や実感を交えながら書かれています。

「笑い」を生きる軸として


写真、喫茶店で取材を受ける成海さん
取材は三和本通商店街内の喫茶店「コロンビア」で

 現在、「人間と笑い」を軸に、小説の執筆をはじめ、イベントやラジオ番組の企画・構成・台本制作、落語家の月亭方正さんと創作落語をつくるなど多方面で活躍する成海さん。

 「実は大学時代には、芸人になりたいと思っていたんです」

 成海さん曰く「斜め上のボケをかますシュールな笑い」をつくる母親のもと、漫才番組を観て議論するほか、日々の何気ないやりとりに笑いのエッセンスが凝縮されていたとのこと。成海さんがお笑いの世界を志したのは、ごく自然のことだったと振り返ります。


写真、喫茶店で取材を受ける成海さん
「日常的に僕を笑わせようと、シュールなボケを仕掛けてきましたね」と母親との思い出を語る

 しかし、大学4年生の時、母親の胃がんが発覚。闘病を支えるため、芸人の夢を諦めて就職の道を選びました。

 再びお笑いの世界を志したのは、32歳の時。死期を悟った母親の「芸人になりたかったんやろう? 私を看病する時間が空いたら、お笑いに挑戦したら?」という一言がきっかけでした。そこから笑いに関わる仕事として、作家を選んだのです。

 今回、自著を初出版するとなった時、今があるのは母親の遺言のおかげだから、「オカンと尼崎」をテーマにした物語を書きたいと思ったと言います。「オカンと尼崎」、その2つに共通するのは「笑いが持つ力」です。

笑いは「魔法」


写真、三和本通商店街の入り口前の成海さん
子どものころに見た年末の市場や商店街のにぎわいが目に焼き付いていると話す

 「僕もオカンのがんが発覚してから、笑いで免疫細胞を活性化させようと、一緒にお笑いの番組や舞台を観たり、きれいな景色を見るために旅行したりしました。すると、余命半年と言われていたところ、再発を繰り返しながらも10年もの歳月を生き抜いたんです。抗がん剤治療などの効果があったのかもしれませんが、僕は笑いの魔法があったと信じています」

 成海さんが笑いを「魔法」とまで表現するのにはもう一つ、理由があります。


写真、喫茶店で取材を受ける成海さん

 母親が末期がんで入院中、よく言っていたという「どんな困難もすべて笑いに変えなさい」。

 「『パスタ(=イタ飯)が食べたいわ。幽霊になったら、どうする?いためしや~』など、オカンはいつ死ぬかもわからない自分さえも笑いに変えていました。笑いはまとわりつく負を消し去り、乗り越える力に変えてくれる…その身をもって笑いの大切さを教えてくれていたんじゃないかなと思うんです」
 
 この物語を書く上で欠かせなかったのが、お笑い好き親子のルーツである尼崎でした。

尼崎という笑いのまち


写真、コロッケを食べる成海さん
物語にも登場する「肉福」のコロッケ

 「僕の生まれは塚口周辺ですが、母の実家は崇徳院。子どものころ、オカンと祖父母の家によく行き、その時に自転車で商店街や阪神尼崎駅前なども巡ったんです」

 その時に出会った人たちや、まちの印象が強く残っていると言います。

 「度量の大きさというのでしょうか。まちについて他人から悪口や否定的なことを言われても『尼やから』『尼やしな』と返す、かっこよさ。歯が1本しかないことをいじられても『食べ物を飲み込みやすいねん』と言い返すんですよね。ネガティブをポジティブに変えることは笑いにしかできないと思っていて、それを自然にできてしまうのが尼崎の人たちなんです」


写真、阪神尼崎駅北側の噴水の縁に座る笑顔の成海さん
子どものころに印象に残った風景の1つとして、「自分は上半身裸なのに、連れている犬には服を着せているおじさんを見て、『いや、自分が着て!』となりましたね」と笑う

 物語では阪神尼崎駅前の噴水広場や商店街の人たち、そしてまちの様子を丁寧に描写した上で、「多様性を幅広く受け入れ、強い個を大切に育んでいるこの街の事を誇らしく思う」と、成海さんの実感が書き綴られています。

 「ダイバーシティ」の必要性が声高に叫ばれる以前から、多様性が当たり前に根づき、一人一人が独自の個性を育み、人生も多様であることを見せてくれるまち・尼崎。だからこそ、多様な個や人生を許容する度量の大きさがあり、ネガティブをポジティブに変えてしまう「笑いの魔法」を自在に使いこなせるのかもしれません。

親子の物語を越えて、尼崎の物語へ


写真、観光案内所の『尼崎ストロベリー』コーナー前に立つ成海さん
阪神尼崎駅北側の観光案内所。購入時に小説のファン作「お散歩マップ」が付いてくる

 『尼崎ストロベリー』出版後、わずか約1カ月で増刷。親子の物語が心を打つとともに、『尼やから』『尼やしな』という言葉の根っこにある尼崎イズムが、尼崎市出身者や在住者に「そう、そやねん!」という共感を生み、人から人へとつながっています。

 「尼崎の小林書店の小林さんが何百冊と販売してくださったり、伊丹ブックフレンズの河田店長と書店員さんが街歩きツアーを企画してくださったり、そのツアーに参加した小説のファンの方がお散歩マップをつくってくださったり。驚くことに尼崎土産として、観光案内所でも販売されているんです」


写真、尼崎中央商店街入り口で取材を受ける成海さん
「尼崎の優しい感じのする夕焼けが好き」という成海さん。本の表紙も夕焼けの風景

 成海さんの視点を通して尼崎を見つめ直すと、「どんな自分もどんな人生もええやん」と自信が持てて、「今から、ここから、また」と上を向く力が湧いてくるようです。

 「生きていれば、誰しも辛いことや泣きたいことがあります。僕は、オカンや尼崎の人たちのように、どんなことも笑いに変えて生きていきたいと思っているんです」







(プロフィール)

なるみ・はやと 大学卒業後、社会保険労務士として人事労務系の仕事を10年間経験。2007年に、エントリーシートの志望動機欄に「オカンの遺言」と書いて、「よしもとクリエイティブカレッジ大阪」作家コースに入学。その後、作家として活躍する。