もう一人の堂安が描くサッカー兄弟の夢

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ボールを片手に抱え、尼崎の景色を背景に笑う堂安さん
堂安憂さん(26)/サッカースクール代表

 あまがさきキューズモールの屋上。2022年4月にオープンしたばかりの真新しい人工芝がまぶしいフットサルコートで、堂安憂さんが自らの物語を話してくれました。プロサッカー選手を引退後、サッカースクール「NEXT10 FOOTBALL LAB(ネクストテンフットボールラボ)」を開校。東京2020オリンピックで日本代表のエースナンバー、背番号10を背負い活躍した弟の律さんとともに、一つの夢を地元尼崎で叶えた兄・堂安憂のサッカー人生に迫ります。


はじまりは近所のサッカークラブから

 三人兄弟の次男として尼崎杭瀬に生まれた堂安さん。「5歳上の兄が浦風FC(フットボールクラブ)に入っていたんです。幼稚園の頃から練習について行っているうちに、いつのまにかボールを蹴りはじめてましたね」。両親ともスポーツとは無縁だったそうですが、サッカーをはじめた理由は「近くにあったクラブに入っただけ」と、いたってシンプルです。

 浦風小学校に入り、本格的にクラブのメンバーとなってからは週末の練習に加えて、川西にあるサッカースクールに通うように。「親はサッカーについては何も言わず、車での送り迎えを欠かさずしてくれたんです」と振り返ります。一方で、「礼儀作法や勉強に関してはとても厳しく育てられました。僕も律もやんちゃだったので、サッカーさせてたら悪いことせんやろうと思われてたのかもしれませんね」と笑います。


コートにコーンやポイントを置きレッスンに向けて入念に準備をする堂安さん。
コートにコーンやポイントを置きレッスンに向けて入念に準備をする堂安さん。

輝きはじめた才能と早すぎる挫折

 浦風FCで兵庫県大会に出場した堂安さんは、セレッソ大阪ジュニアユースのスカウトの目に留まります。「対戦相手の兵庫FCにいたスター選手を見に来たついでに、たまたま僕もセレクションに呼ばれたんです」と小田南中学校(現・小田中学校)への進学と同時に、プロチームの下部組織に所属することに。

「周りはエリートだらけ。全国クラスの選手とプレイしていましたが、中学2年の終わりにケガをして実はサッカーを辞めていたんです」という堂安さん。しかし、堂安さんのサッカーへの思いをくみとった中学校の恩師からの紹介で、長野県松本市にある創造学園高等学校(現・松本国際高等学校)へのスポーツ推薦を受けることになったのです。


複数のコーチとともにレッスンでは生徒の動きにあわせてきめ細やかな声かけをします。
複数のコーチとともにレッスンでは生徒の動きにあわせてきめ細やかな声かけをします。

恩師との出会い。サッカーで全国へ

 サッカー部強化のための県外からの推薦入学、いわゆるサッカー留学第一号となった堂安さんはここで人生の師匠に出会うことになります。サッカー部監督の勝沢勝(かつざわまさる)さん。「はじめに名前を見たときは『いや、どんだけ勝ちたいねん』と思いましたけどね(笑)。その監督の目標が全国大会出場。一度はサッカーを辞めた僕を拾ってくれた恩返しをしたい」と、これまで自分のためにしていたサッカーから「誰かのために勝ちたい」と意識するようになったといいます。

 尼崎を離れて松本市の全寮制の高校で奮闘した堂安さんは、高校2年生の夏のインターハイと冬の選手権の両方で、全国大会出場権をかけた決勝ゴールを決め目標を達成しました。高校3年生の時にはキャプテンも務め、Jリーグのプロチーム「松本山雅(やまが)」から練習への参加を許されます。ですが、「すべてが自分一人で引き受けないといけない世界。あの頃はまだプロのプレッシャーや責任感に耐えられなかったんです」と大学進学を選んだといいます。


子どもたちと冗談を言いあう姿はまるで近所のおにいちゃん。一人一人との関係づくりを大切にしています。
子どもたちと冗談を言いあう姿はまるで近所のおにいちゃん。一人一人との関係づくりを大切にしています。

ビデオ係からの再出発

 入学したのは関西学生リーグ1部を戦うびわこ成蹊スポーツ大学。全国から優秀な選手が集うチームで、1年生の堂安さんはビデオ撮影係からスタートしました。チームが変わるたびに自分より上手い選手とのレギュラー争いを強いられるアスリートの世界。「それでも腐ることはなかったですね」と言います。

「絶対に自分の方が上手いと思ってましたね。練習量も負けてなかったし、何よりもサッカーが好きですもん」。努力をすることや自分を信じる力で、3年後にはチームを関西学生リーグ優勝に導く得点ランク2位のスター選手へと、自らを成長させます。


AC長野パルセイロのMF(ミッドフィルダー)として活躍した堂安さん。
AC長野パルセイロのMF(ミッドフィルダー)として活躍した堂安さん。

そして、プロの世界へ

 そろそろ就職活動を、とスーツをそろえた大学4年のゴールデンウィーク。ついにサッカープロリーグ3部リーグ(J3)に所属する「AC長野パルセイロ」からのオファーを受けます。「実はプロになるまでプロを意識したことはなかった」という堂安さん。「プロになりたいという強い思いはなかったんです。もしそういう気持ちがあったら僕にとっては焦りになっていたかもしれません」。

 かつて高校時代を過ごした長野で、2018〜19年のシーズン1年目でチームの最優秀選手に選ばれた堂安さん。しかしチームの期待を背負った2年目では、度重なるケガに悩まされ退団することになりました。「ケガも才能のうちですからね」と、関西1部リーグに移籍するもまもなく選手としての引退を決意します。

故郷ではじめる兄弟の夢

 引退を決意した理由は、もう一つの夢であるサッカースクール開校への思いが、たしかなものとなったから。「いずれは勝沢先生をはじめこれまでお世話になった恩師たちのように、技術だけでなく心構えを教える指導者になりたい」と大学では教員免許を取っていた堂安さん。「弟の律とも話をして、僕らの故郷尼崎での開校で恩返しができれば」とJR尼崎駅前というまさに地元で夢を叶えたのでした。


弟・堂安律のイニシャルを冠したコート名「RD FIELD」。「ロゴマークは律のゴールパフォーマンスのサインをデザインしてもらったんです」と憂さん。
弟・堂安律のイニシャルを冠したコート名「RD FIELD」。「ロゴマークは律のゴールパフォーマンスのサインをデザインしてもらったんです」と憂さん。

 栄光と挫折、人との縁、運やタイミングの間を華麗にドリブルするように駆け抜けてきた堂安さん。兄弟で独自の練習プログラムを考え、指導スタッフにはこれまでのチームメイトやライバルたちを呼び寄せ、さながら少年漫画のような物語の新たな章がはじまりました。







レッスンを撮影する様子




(プロフィール)
どうあん・ゆう 1996年尼崎市生まれ。サッカー技術の習得だけでなく人間力の向上を大切に開校した「NEXT10 FOOTBALL LAB」代表。名前は「尼崎から次の10番(エース)を」という思いから。園児から小学生までを対象に個人にあわせて指導する塾のようなスクールを目指す。