せいろを開けると、ふわりと湯気が立ち上る。蒸したての肉まんを一口頬張ると、表情が和らぐ。年齢や国籍、障害の有無に関係なく、さまざまな背景を持つ人たちが「おいしい」をきっかけに緩やかに交わっていく場所があります。「香港飲茶 味彩」です。
同店を立ち上げたのは、中国・北京出身の田山華栄さんと、大阪出身の幸雄さん。日本で出会った2人は、尼崎で国際交流や多文化共生の活動を続けてきました。たとえば、2013年から2019年まで、「未来への輝きコンサート」を開催。日中の障害のあるアーティストを中心に、出演者延べ300人以上、観客延べ2800人以上が集い、回を重ねるごとに広がりを見せていました。こうした高い芸術性と規模の大きさを兼ね備えた取り組みは、一過性のものではなく、継続的に重ねてきた活動の一例です。
その歩みが今、このお店にどのようにつながっているのでしょうか。
日中友好の思いを胸に、中国から尼崎に来て34年
生まれつき脊椎カリエスによる麻痺のある華栄さんは、中国では障害者の権利向上をめざす運動に参加し、大学卒業後は公務員として福祉の仕事に携わっていました。
日本、とりわけ尼崎とのつながりは、尼崎市日中障害者友好交流協会との交流がきっかけ。同協会は、関西の有志によって立ち上げられた任意団体で、1990年代には中国への訪問や、上海市・北京市の障害者友好訪日団の招へいなどを通して、日中の障害者の友好関係の礎を築いていました。こうした往来を重ねる中で、「私が日本に行くことが、さらなる日中友好につながるのではないか」と考えるようになったそうです。そして1992年、33歳で移住。尼崎で暮らし始めます。
その後、交流活動に尽力する中、1995年に阪神・淡路大震災を経験しました。さらに数年後には、パートナーとの死別という出来事が重なり、生活が厳しく、中国に帰って暮らすことも考えていたと振り返ります。そんな時に出会ったのが、現在の夫・幸雄さん。30代という若さで脳出血により右半身に麻痺が残る幸雄さんと、これからの生き方について語り合う中で、お互いの思いや価値観が重なっていきました。
「私にはできないことがいっぱいあるけれど、私にしかできないこともあります。国際交流や福祉に関わることが、その一つだと思っているんです」と華栄さん。その言葉通り、“私にしかできないこと”と向き合ってきた延長線上に、今があります。
“私にしかできないこと”を、地道に積み重ねて
華栄さんはまず、日本での生活を立て直すために、多文化共生サポーターとして職を得て、中国から来日した子どもたちの通訳や学習支援を担ってきました。また、FMあまがさきの中国語放送にも携わるなど、地域に根ざした活動を積み重ねていきます。
さらに、尼崎の有志の人と2002年に関西障害者交流協会を設立し、2003年5月にはNPO法人に認定されました。同協会では、中国の芸術団を招いたコンサートや障害のあるアーティストの発表の場づくり、アジア料理を囲む交流会など、年齢や国籍、障害の有無に関係なく芸術や食文化を通じた交流の機会をつくってきました。華栄さんが中国時代に築いてきた人とのつながりもあり、中国の芸術団の招へいや交流も、その延長線上で実現できています。
2008年には、中国・四川大地震を受けて「中国四川大地震被災障害者救援コンサート」をアルカイックホールで開催。尼崎を中心に寄せられた募金約100万円を、現地の障害のある人たちに手渡しで届けました。
こうした活動を通して、一人ひとりの顔が見える関係性を、地域や国を越えて少しずつ育てていったのです。「関わりのできた人たちの困りごとや求めに向き合い、社会に必要とされることを、自分たちにできる方法で取り組んでいく」。その思いは、さまざまな取り組みの中に一貫して息づいています。
中国残留孤児ら、多様な背景を持つ人々の居場所づくり
つながりが広がる中で、新たな課題も見えてきました。その一つが、尼崎で中国残留孤児とその家族の支援に取り組む日本語教室「コスモスの会」との出会いです。中国残留孤児の高齢化が進む中、言葉や生活習慣の違いから、既存の福祉施設になじめない人が少なくないことを知ります。
そこで、2019年に立ち上げたのが、「多文化共生デイサービス 三和之家」。中国残留孤児やその家族をはじめ、多様な背景を持つ高齢者が通う居場所で、言葉や文化に配慮しながら、それぞれが安心して過ごせる環境を整えてきました。しかし、その直後にコロナ禍が訪れます。利用者の減少により収入は落ち込みますが、家賃や人件費の負担は変わらないまま、運営は厳しい状況となっていきました。
「この居場所を守るために、どうしたらいいのか」と考える中で、たどり着いたのが「香港飲茶 味彩」。客として訪れる人にとっては、気軽に立ち寄れ、この場で過ごすことでさまざまな人とのつながりを感じられる場です。それだけではなく、さまざまな人が働ける場としての役割も担い、「三和之家」という居場所を支えていく一助になっていきます。
誰もが同じ地球に生きる“地球人”として向き合う
「国と国の関係まではどうにもできなくても、一人の市民としてできることをコツコツとやっていければいいと思っているんです。こうしてお話ししている時、年齢や国籍、障害の有無を意識しませんよね? 目の前の人がどんな人生を歩んできたのかを聞いて、向き合う。それだけで十分ですよ。同じ地球に生きる、“地球人”として付き合っていけたら」と華栄さん。
幸雄さんもこう続けます。「商店街でも、最近は海外から来ている方の姿をよく見かけます。尼崎に来る人は、この街が好きで来ているんだと、僕は思っているんです。だったら、一緒に仲良くやっていけたらいいですよね。そう考えると、自然と距離も近くなるように感じます」
華栄さんはある人との会話の中で、「田山さんたちがされていることは、人を支える素晴らしい活動ですし、何よりご一緒すると楽しいんですよね」という声を聞いたことがあるそうです。大変な時期を何度も乗り越え、今もこの居場所をどう守っていくのか、試練の真っ只中にあると語りながらも、田山さんご夫妻の雰囲気は明るい。「苦しいこともありますが、みなさんの幸せそうな顔を見ると、私たちもやりがいを感じるんです」と華栄さん。
味彩の肉まんを頬張ると、2人を中心に広がってきた人とのつながりや、重ねられてきた時間、他者へのまなざしの一つひとつが思い浮かび、その中に自分もそっと受け入れられているように感じられます。
たやま・はなえ、ゆきお 華栄さんは1992年に尼崎市に移住。活動の中で幸雄さんと出会い、2005年に結婚。2007年に2人で、障害のある人や異なる文化的背景を持つ人の働く場として多文化共生小規模作業所「ハオ作業所」を、2012年には障害のある人の居宅介護や移動支援を行う「ハオ介護サービス事業所」を開所。2013年には障害のあるアーティストの発表の場づくりに取り組む「日本障害者芸術団」を設立し、「未来への輝きコンサート」を定期的に開催してきた。2019年には「多文化共生デイサービス 三和之家」を開所し、多様な背景を持つ高齢者が安心して過ごせる居場所をつくる。2021年には「香港飲茶 味彩」をオープン。味彩では、「食べて幸せ」という気持ちは人と人とをつなぐ力になり得るとの思いから、テイクアウトもできる看板商品「味彩の肉まん」を「日本一の肉まんにしたい!」という夢を描いている。
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